Img_484a9c3c09fefa573e374056ccd20fe3
連載原稿「右翼ノート・いまなにがおきているのか」を掲載頂いている。
今回で、天皇陛下沖縄行幸御奉迎レポートを終了。

次回は「核は誰のものか」ー米朝首脳会談を受けてーを予定してる。

また、楠公祭で奏上した「祈願詞」も掲載頂いた。

   ☆     ☆     ☆     ☆

この運動に入るきっかけとなった野村秋介先生のお写真が表紙を飾る誌面に、署名の連載原稿を掲載していただけるようになったことは感慨深い。機会を頂いたことに深く感謝している。

   ☆     ☆     ☆     ☆

なにを、誰に向けて書くか。

数年前、商業誌にペンネームではあるが連載をさせて頂いていたことがある。

それはある種、特異な読者層を持つ雑誌であったが、明確な対象に対して「なにをどう感じてもらうか」と、考えながら書くことを課題としたことは良い経験になった。

そしてなにより、自分の原稿に校正・校閲が入るという緊張感は、なにものにも代えがたい財産となった。

「話す」「書く」「行動する」
運動家にとって、この三つをすべて上手くこなせればと思うが、凡人にはなかなかそうもいかない。

自己満足に陥らず、分を弁えながら、一番好きな「書く」ことに精進しようと思う。
5月25日 赤坂・乃木神社にて「楠公祭」(祭主・犬塚博英先生)が斎行され、祈願詞を奏上させていただきました。

人それぞれに渾身の悩みあり。それでも、守り伝えなければならないものはある。

私が楠公祭に関わらせていただく「覚悟」を「祈願詞」の一部から…

楠公祭を厳修されてこられた中村武彦先生とその同志、尊攘義軍烈士らもまた尊皇絶対であるがゆえの行動が、はからずも違勅となりしときに 天皇陛下萬歳の雄叫びとともに自決した姿は、大楠公が湊川に斃れしことに呼応するものであったと確信します。

この昭和20年8月22日の自決の3ヶ月前、世田谷・松陰神社で斎行された楠公祭について中村先生は「これが我々の最後の楠公祭であり、我々の湊川出陣の時機はせまっていると覚悟する、まことに悲壮感に満ちて厳粛を極めた」と回想されています。

本日、その楠公祭から70回目という節目の時を迎えました。また平成の御代における最後の御祭に臨むにあたり、あらためて中村武彦・尊攘同志会の同志らが必死懸命に大楠公に祈り、聖運を開かんと誓願したその思いを我がものとして、進むことを誓願いたします。

※楠公祭は、毎年5月25日、乃木神社の皆様にご奉仕をいただいて斎行されています。
Img_971df7b464ddf2d7f020be99909921da
Img_cc2d46630607ceeb6f2882f54b7fcccd
Img_67586cd88855be825a9e7289c1559614
Img_00ef5b22c5ae6d6d512a4eed5575d442
一部加工しています
討論会レポートはあらためて発表します。

上海は魅力的な街だった。寧波では蒋介石の出生地などを巡った。

中村武彦宣先生は『維新は幻か』のなかで、

「私が片岡(駿)、奥戸(足百)両氏とともに、天野(辰夫)先生から与えられたある任務を帯びて上海へ渡ったのは昭和15年3月から5月にかけての時期で、ちょうど汪兆銘の新国民政府が南京へ遷都した前後の中支の情況をつぶさに見ることができた」としるす。

魔都とも呼ばれた旧租界に立ち、往事に思いをはせると、なにか血が滾る思いがした。

訪中にあたり、ご支援頂いた皆様に感謝申し上げます。
Img_491ffa7287444fe28f810f17671b6425
拙文を掲載頂いております。
購読はメールにてお問い合わせ下さい。

【楠公祭のご案内】 (Click!) 
Img_ba90635dc20f18cccd1bdc0f17a6e0da
謹啓 青葉繁り風薫る好季節、各位には愈愈ご清祥にて、邦家・社会のためにご精励のことと拝察、心から敬意を表します。

平成の御代における楠公祭も最後の年となりました。

中村武彦先生は、ご著書『私の昭和史』(展転社)のなかで、

「大東亜敗戦直前(昭和20年)の5月25日。世田谷の松陰神社で尊攘同志会が行った楠公祭は、これが我々の最後の楠公祭であり、我々の湊川出陣の時は迫っていると自覚してゐたから、まことに悲壮感に満ちて厳粛を極めた。

3年後ひとり生残って帰ってきた私は翌年(昭和24年)同志会の残党とともに楠公祭を復活して例年の祭典とした。

段々参加者が増えて活気を呈し、祭場も五反田の建武神社から赤坂の乃木神社に移って定着し、今日に至った」

と記されました。

本年はその敗戦直前の楠公祭から算えて70回目の御祭りとなります。

この節目の時、私たちは尊攘同志会の悲壮な決意のもとに行われた楠公祭、そして戦後中村先生が湊川の決戦を偲び、同志らの御霊を背負い再興された楠公祭の、その原点の精神に立ち帰り、御祭りを厳修いたしたく存じます。

これまで、先行き不透明の時には常に原点に立ち返り、大楠公の尊皇絶対の大確信、「死ありて他なかれ」 に学ぶことを、師・中村武彦先生より教導いただいてまいりました。

師の遺訓を噛みしめながら、非常の国難の秋に左記のとおり、 楠公祭を厳修いたしたく存じます。
 
有縁の同志道友各位のご参列を賜りたく謹んでご案内申し上げます。     謹白

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【時】平成30年5月25日(金)
    
《第一部》『太平記』輪読会
      受付開始 午後4時半 
      輪 読 会  午後5時〜午後6時
         
《第二部》「楠公祭」
      受付開始 午後6時
      祭  典 午後6時半〜
      玉 串 料  2千円

【所】乃木神社・尚武館(神社社務所2階)
   (地下鉄・千代田線「乃木坂」下車)
敬天新聞社ブログに記事を掲載頂きました (Click!) 

大荒れの天気予報であったが、開催時刻には強風ながら太陽が顔を出し、最悪の事態は免れることができた。

ご参集頂いた30団体、80名の皆様に感謝申し上げたい。

これまで渋谷区でのデモ行進を開催してきたが、公園使用の不許可等もあり、この数年は新宿で演説会のみを開催してきた。

本年は、初心に立ち帰る意味で、新宿に場所を移してデモ行進を再開した。

伊勢丹前、そして人の流れが変わった南口バスタ前など、予想以上の人手で絶好のアピールの機会にはなったと思っている。

矛盾を解釈で運用し続けてきた現行憲法である。この矛盾をあらたに糊塗する改憲案に対し、あらためて真姿日本のあるべき憲法を、デモ行進と演説会で訴えることが出来たのではないだろうか。

それでも、終わってみれば「ああすれば、こうすれば」という反省も多々うかんでくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

去る5月1日、月次参拝をしながら、来年の今日は新しい御代になっているんだなと、ふと思った。

「即位後朝見の儀」では、どのような御言葉を賜るのであろうか。

来年の開催方法を熟考したいと思う。
Img_0b70490554f96e4b173b3da2ae1656ef
花園西公園に集合
Img_9ee11eff3de32004c663abbced4b2b5c
開催にあたってご挨拶
Img_716ae93663412039d6df0f9fbf0fab44
強風のなか旗手をつとめてくれた小野寺君
Img_c653f6186576f36010010e90b44eb765
社会の不条理を糾す会から阿形代表世話人をはじめ多くご参加頂いた
Img_b878d63ce62855cb13c770bcd9c5b4fc
警備にあたる和泉君
Img_66546fd08ec8a1b6020096f62c51fde7
演説会には八名登壇いただいた。大愛塾・人見さん
Img_4df5858a5d37ecfae6b4484ae2adfcc0
統一戦線義勇軍・仲西さん
Img_e74d04308df06f50d429759f0b97c591
志村実行委員
Img_5c2a85a34205bf298c582c66b43516a9
運営に携わっていただいた方々と
Img_680c9397e032848bbc5d786ddbef7ffa
問「共通するものとしないものをひとつずつ指摘せよ」
Img_24e4961ed59db3a26d2c8f56f3974613
民族革新会議の皆さんと
真夏を思わせる天気だった。

4月22日、上野公園で斎行された西郷南洲銅像清洗式(主催・一般社団法人西郷南洲会)に参列させていただいた。

本年は王政復古の大号令が渙発されて150年という節目の年。NHKの大河ドラマでは南洲翁を主役として物語が展開されている。多くの人々に、南洲翁をつうじて明治維新の意義とは何であったのか、また翁の御事績について知る機会になればと思う。

私は父方が鹿児島の神職の家で、南洲神社の階段を下りたところにる春日神社に奉職をしてきた。また母が水戸ということもあり、この運動に入ってからは特に、桜田門外の変をめぐる、薩摩と水戸の関係と、またもし薩水同盟というものがあり得た場合、薩摩の南洲翁と水戸の藤田東湖先生が指導する、尊攘維新とはどのようなものになっていただろうかということを、現代の運動に置き換えて考えている。

維新後、水戸の志士で官位に就いた人はいない。これは逆に南洲翁の遺訓にある「命も要らず、名も要らぬ、官位も要らぬ」という言葉を実践する、水戸っぽの真骨頂である。

右翼もまた、こうあるべきだ。

南洲翁も官位を捨てて下野し、第二維新というべき西南の役において、翁は賊として命の最期を迎えた。

226事件において処刑された青年将校もまた、賊として最期だった。

昭和11年7月12日、将校らが処刑ことを侍従武官からお聞きになった昭和天皇は、終日御所の奥でお慎みになられたと昭和天皇実録にある。

その年の盂蘭盆の時、陛下は御所に盆提灯を掲げて、皇后陛下とご覧になられたともある。

その盆提灯の数は、処刑された青年将校の数と同じであったともいう。

天皇の軍隊のその軍紀に刃向かったとされる226事件の歴史である。けれども先帝陛下は将校らの蹶起の本質についてすべてを御理解下さっていたのではないだろうか。

同様に、南洲翁にもまた、明治天皇は銅像の建立にあたって、莫大なお金を下賜され、その汚名を雪がれている。

天の大御心は、すべての本質をおわかりくださっている。

そう考えれば、私たちはあらためて、みずからの思想運動のありかたが、大御心に添いうる、ご理解いただけるものであるか、否か、ということを南洲翁の御前で、強く思った。