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Facebook頁より転載
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Facebook頁より転載
ご本人に右翼からのエールは迷惑かもしれないが…。

私たちの取り組みはこんなかたちでしたが、
■「パソナ、竹中平蔵への抗議街宣 訴訟に発展」 (Click!) 
■竹中平蔵を解任せよ  (Click!) 


【fecebookに以下のような投稿があると教えていただいた】
その勇気を称え、東洋大学の対応を非難する。

以下、転載。

東洋大学4年の船橋秀人君が、大学キャンパスで東洋大学教授竹中平蔵の講義と、竹中平蔵が行って来た犯罪的な行いに抗議して、単身で立て看を立て、ビラ撒きを行いました。学生の反応はいまひとつ、立て看は10分で撤去されたそうです。大学当局は、彼を呼び出して二時間半も尋問して、「学則に違反する行動」として、「学生の本分」から外れ、「大学の秩序」を乱したと決めつけて、卒論審査も済んでいる彼に「退学処分」を警告したそうです。

若者の命と未来を奪い、若者の希望と可能性を破壊した竹中平蔵を批判したことの、どこが「学生の本分」から外れ、「大学の秩序を乱した」のだと言うのでしょうか!?

ソーシャルメディアでは、船橋君の勇気ある単独行動を支持する声が高まっています。しかし東洋大学の学生の冷たい無視と、当局の弾圧への教職員の無視は酷いものですね。東洋大学でのビラ撒きは40年ぶりではないかと言う、船橋君への不断の注視と、彼の抗議行動への連帯表明をお願いいたします。

今の全体主義時代に、ひとりで竹中平蔵に抗議することは、ナチ時代の1942年からミュンヘンで反ナチ活動を続けた『白ばら』に等しいと船橋君は言っています。
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船橋秀人君より
『立て看設置&ビラまき、同時決行!
しかし、大学当局によりあえなく撤去、その後2時間半にわたる取り調べとなりました。
♯立て看 ♯ビラ ♯東洋大学 ♯南門』
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以下は、船橋君からもらったビラの文です。

この大学はこのままでいいのだろうか?
我々の生活が危ない!
竹中氏の過悪、その一つは大規模な規制緩和である。特に2003年の労働者派遣法の改悪がこの国にもたらしたものは大きい。それまで限定されていた業種が大幅に拡大されることで、この国には非正規雇用者が増大したのである。「正社員をなくせばいい」や「若者には貧しくなる自由がある」といった発言は、当時の世論を騒がせた。しかしながら、この男まるで反省の素振りを見せない。「朝まで生テレビ!」という番組では、自らの政策の肝であったトリクルダウン(お金持ちが富むことでその富が貧しい者にも浸透するという理論)について、「あり得ない」というある種開き直ったかのような発言をしており、まるで自分がやった責任について無自覚なようだ。また、昨年可決された高度プロフェッショナル制度については、「個人的には、結果的に(対象が)拡大していくことを期待している」などという驚くべき思惑を公言している。つまり、初めは限定的なものだからという理由で可決された労働者派遣法が、今これほどまでに対象を拡大したように、高度プロフェッショナル制度は、今後とも更なる拡大が予想されるのである。無論、我々も例外ではない。労働者はこれから一層使い捨てにされることになるのだ!!
様々な利権への関与!?
竹中氏が人材派遣会社のパソナグループの会長を務めているということも忘れてはならない。というのも労働者派遣法の改悪は、自らが会長を務める会社の利権獲得に通じていたからだ。まさに国家の私物化である。また、最近では昨年法案の正当性について全く審議されずに可決された水道法改正案と入管法改正案についても関与していたことが明るみになっている。更に加計学園との関連も取りざたされており、今後ともこの男の暴走を追及する必要がありそうだ。
今こそ変えよう、この大学を、この国を
皆さんは恥ずかしくないですか、こんな男がいる大学に在籍していることが。僕は恥ずかしい。そして、将来自分や友達や自分の子どもが使い捨てにされていくのを見ながら、何も行動を起こさなかったことを悔いる自分が、僕は恥ずかしい。意志ある者たちよ、立ち上がれ!大学の主役は、我々学生なのだ。右も左も前も後も何にも分からない人も、みんな集まれ。民主主義は決して難しいものではない。共に考え、議論し、周りに訴えながら、もう一度みんなでこの社会を立て直そう!!
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(写真提供:同血社 下山陽太氏)
※神宮参拝禊会のご案内 (Click!) 

ロシアでは国民が北方領土紛争に関して、島ではなく「プーチン大統領を日本に渡してしまえ」と、なかなか粋なスローガンを掲げているという。

22日の日露首脳会談は、また安倍首相が待ちぼうけを食わされてはじまり、結局のところ会談の意味がどこにあったのか、傍目にはなかなか理解できないものに終わった。

どこに向けて前進するのか?

さきがけた外相会談をめぐる報道では、1956年の日ソ共同宣言をベースにした歯舞群島、色丹島にプラスアルファがなされる形での協議に一歩前進しているかのような印象操作がさかんに行われていた。

一方で、ロシアのラブロフ外相は、北方領土がロシアの主権であることを日本が認めなければならないと発言する。もちろん、これはロシア国内向けのものであるのだが、逆に日本もまた4島返還を原則としながら、共同宣言の2島に政策を転換することに対して、国民の信を得ているものでもない。

はたして長期的な展望、指針が両政府にどれだけあるのだろうか。

56年宣言にならえば、国後島、択捉島を取り戻すことは現実性を失う。可能性としては、2島返還によって国境が画定され、その上で国後、択捉への自由往来などが可能になるかも知れないが、それも希望的観測に過ぎない。

それよりも、単純に歯舞、色丹の日本への主権移転がスムーズに行われるのか。

一説によれば、ロシアは返還ではなく2島をプレゼントするという意味合いでとらえているらしい。

しかしプレゼントされては困るのである。あくまでも取り戻すのだ。

対話したジャーナリストは、プーチン大統領から勲章を受け、ラブロフ外相にも個別にインタビューのとれるASLAMOVA Daria女史。

領土に関する認識は平行線を辿るだろう。その上で何を見出すことが出来るのか。

特に印象に残った事柄といえば、大東亜戦争終戦にともなう認識である。

日本は、敗戦し講和条約を締結した時点で新しい国になっている。過去はすべて精算されなくてはならない(千島や樺太をふくめ、北方領土はロシアのものになった)というものだ。

かなり日本の歴史や文化をナメた発言である。

ありふれた言い方だが、終戦のどさくさに便乗し、二国間の条約を無視した上に、密約に乗じて不当に行った侵略が、戦争行為ではないという認識もないのだろう。

そこにはふれることなく、声高に自国の正当性を主張されると対話の気分は段々失せてくる。

中国でも、討論のテーマとはかけ離れた「歴史論争」(一方的な論理の押しつけ)に辟易とさせられたことを思い出した。

なんならシベリア抑留とは、などと発言してもよかったのかもしれないが、今回の主旨とは違うのだろうと、理性を働かせた。(この時点で私の敗北なのだろうか)

日本とロシアの関係改善は、中国や韓国との関係にも大きな影響を及ぼし、なにより日米関係の重大な見直しの可能性を見出すことが出来るかも知れない。

それでもDaria女史は、アメリカの植民地である日本との同盟などあり得ないと断言した。なかなかのナショナリストである。

熱烈なる毛沢東思想で反米を! と語った中国人識者を思い出した。

盛んに報道される「2島返還論についてどう思うか」という私の問いには、きっぱりと「ロシア国民に対する裏切りである」と答えた。

これはそのまま、4島返還から政策転換をしようとする日本政府に対する国民の意見でもある。

では、北方領土はいつ戻るのか。

2月7日を迎えるにあたり、毅然とした外交を求めて政府に要請を行うつもりである。

【余談】
参加の同志より、ロシアの国民は靖國神社についてどのくらいの認識を持っているかとの問いかけがあった。

その答えは、「国民の8割はその存在すら知らないだろう。でも、安倍首相が父の墓参りをしたことは、ほとんどの国民が知っている」というものだった。
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謹啓 平成31年年頭にあたり、謹みて皇国の弥栄を祈念いたします。皆様方におかれましては、ますますご清祥のことと心よりお喜び申し上げます。

本年もここに、中村武彦先生、大野康孝宮司遺訓継承・神宮参拝禊会「みそぎ研修の集い」を下記の通り開催いたします。

昨年の 天皇陛下御生誕日の御言葉を拝し、我々は平成の御代に何をなしえたか自問自答せざるを得ません。そして来たるべき御代に、新帝に対し奉りその絶対の忠誠を如何にお誓い申し上げるか。

皇祖鎮まる神都伊勢の地で、みそぎを通じて思いを深くいたしたく思います。

何卒、有縁の道友同志お誘い合せの上、本年の「みそぎ研修の集い」に奮ってご参加頂きたく、謹んでご案内申しあげます。                              謹白

【日 時】 平成31年 3月9日(土)午後1時 〜翌 10日(日)午後1時 閉会
【場 所】 「財団法人 伊勢神宮崇敬会・神宮会館」(宿泊も同所)

※事前登録が必要です。参加希望の方には、実施要項を送らせていただきますので kuninoko@gmail.com まで、ご連絡ください。
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30年式年祭を終えた昭和天皇武蔵野陵
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参道で御奉送
昭和天皇の御崩御より30年。これはそのまま今上陛下の践祚からの年であるが、御代がわりを控えた大きな節目である。

例年通り、御陵に向かうが今日は規制中となっていた。
近くにバイクを止めて参道へ行くと、同志の皆様が陛下の御奉送のため待機されていた。

近くで暫し時間をやり過ごすと、白バイに先導され 天皇皇后両陛下、秋篠宮殿下、皇族方が乗られた車列が通る。最敬礼でお見送りし頭を上げると、目の前の車には安倍総理が乗っていた。

12時30分に規制が解除され、陵に参拝させていただく。

12月25日(大正天皇祭)の参拝は、ほぼ一人だっただけに、この違いはなにかと思わざるを得ないが、それでも激動の時代に皇位にあられた先帝の御事績を偲ぶ人が多くあるということなのだろう。

昨晩は『昭和天皇実録』の頁を追って過ごしていた。
時系列のならびは、思いつくその日、その日がリアルに現れてくる。

昨年の夏、岩井克己氏が『選択』誌上に連載していた「宮中取材余話 皇室の風」をまとめたものが、講談社から刊行された。

その論旨については、手放しで賛同できないものも多くあるが、近くで皇室を取材し続けて見た事実に、学ばされることがたくさんある。

さきの『昭和天皇実録』にまつわる話の中で、こんなものがあった。
《本は、後輩に貸してしまったので、要約・書き出したノートから》
■は抜き書き、()は私見である。

■『昭和天皇独白録』
1946(昭和21)年、東京裁判対策のため側近らが昭和天皇から4日間計8時間にわたり大戦の回顧を聴いた記録。

(1991(平成3)年、『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』として、寺崎の遺族マリコ・テラサキ・ミラーが講談社より出版した。)

■徳川義寛(1988、昭和63年まで侍従長)
「あれの原本は私も見たことがあるが、寺崎さんの『独白録』は原本とはちょっと違うように思う」「宮殿の下にいろいろ保管してあるので、そこにあるかもしれません。世に出ることはないでしょう」

■昭和50年代に当時の入江相政侍従長が19回にわたって昭和天皇の「大東亜戦争回顧」を聞き書きした『聖断拝聴録』が存在する。『独白録』とは比較にならない分量。

■徳川義寛が持ち出し? 遺族が自邸に残されたカバンとともに宮内庁に返却。

■『独白録』『御聖断拝聴録』ともに、実録採用のために捜索したが不明。卜部日記によると天皇自筆の「日記」も香淳皇后の崩御後に見つかったが、側近が副葬品として陵に埋葬してしまった。

(宮内庁とあろうものが、『独白録』『御聖断拝聴録』ともに、捜索したが不明とは、にわかに信じがたい。もしかすると、身近に仕えた者が「守秘ということを忘れ、問わず語りをするよりは」また「政治利用されるおそれ」という考えに基づく賢明な言い訳なのかも知れないと思う)

「陵には、先帝陛下自筆の日記も納められているんだな」そんなことを思いながら、また、いまだ先日の天皇陵を巡る旅を思い出しながら、時代の節目を強く感じ参拝させていただいた。

帰途につかれる皇族方は、どのような思いで参拝されたのだろう。

岩井氏は言う
「政治的妥協で皇室典範が本法と特例法の重層構造となってしまった以上、女性皇族の扱いこそ特例法で乗り切らざるをえないのではないかということだ。毒を食らわば皿まで、である」

為にする謂いであるが、これもまた目を背けてはならない論であることは事実である。
平成31年の年明けから、池田アジア支局長が、インド・インパール、ビルマ・タム方面における、ご遺骨収容調査ならびに戦跡慰霊巡拝を行った。

毎年数次にわたる調査活動は、過去の『國の子評論』を参照いただきたい。

     ☆    ☆    ☆    ☆

【池田支局長の過去記事から】
■ガイド青年の戦争博物館
活動を共にする現地のボビー青年は自宅を改装し、みずからが収集した資料を展示している。

彼は現在「Imphal Campaign - WW2」と言う基金を主宰しながら、この活動のなかで各地から寄せ集められた情報をもとに、日本軍、イギリス軍などの戦跡調査などをおこなっている。

そのなかで、ご遺骨も見つかる場合がある。
なかにはサンシャーク村で昨年見つかった歯や靴底、大腿骨、階級章などもある。

     ☆    ☆     ☆     ☆

昨年、そんな活動に対し、日本の財団から2700万ルピー(4000万円)の基金が供出され、レッドヒル慰霊塔横に戦争のメモリアル施設が建築された。しかし現実には、戦争関連のものの展示はキャンセルされ「平和メモリアル」という訳の分からない用途に供されることになったようである。
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インド・ビルマ方面活動記事
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ビルマ、カレーミョ地区活動記事
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建築前はIMPHAL WAR MUSEUMの看板だったのだが…
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平成31年 初富士
本年もよろしくお願いいたします。

新年早々のニュース速報は「新元号」公表を4月1日に行うというものであった。

誰の都合かわからないが、はたしてそれで良いのか。

過去200年、譲位による新帝即位がなかったことは事実である。だれも経験したことのない御代がわりである。

しかし、これまで御在位中の天皇が、次の御代の元号を決められたことがあったか。

新帝の勅許のない元号の御代があり得るのか。

ネットにおけるこのニュースへの反応は、伝統護持派と破壊者(西暦推進)が拮抗しているように感じた。しかしこれは、免許証の西暦使用問題とはあきらかに次元が違う。

免許証の表記から、伝統が崩れていくという考え方もあるが、もっと根源的な問題なのである。

践祚、改元を唯一の道とするべきである。

改元後、時間をおいて行政がそれを正式に使用すれば良いだけのことである。

安易な公表をやめよ!

平成31年の幕開けとは、戦いの幕開けでもある。

北陸から淀川を超えたはじめての天皇が継体天皇である。

これを、水運を掌握していたとして、朝鮮までその勢力を持ったと書くのは『継体天皇と朝鮮半島の謎』(水谷千秋・文春新書)である。これも興味深い論である。

その後、大和に入るまでの20年間を、対立・抗争の時代とし、のちに大和の勢力を圧倒して皇位を継承するとともに、手白髪(香)皇女を皇后として地位を確立したという説は、『日本書紀』の応神天皇5世というものも含めて潤色だとする論である。

これを簡単に否定してしまうことは容易いのかもしれないが、信仰にとっての堕落でもあるような気がしてならない。

例えば「進化論」の論争のなかで象徴的なもののなかに、
①神がこの世を創造したことは誰も証明できない。
②猿から進化した人を誰も知らない。
という対立がある。

この両論は、どちらも正しい。

進化論が、学問的に解決が可能なのことなのかはわからないけれども、神話を真実とした強固な信念と、時間とランダムな変化が続くことで成立する進化論は永遠に対立するのだろう。

今回の天皇陵を巡る旅も、表向きの結論は「神話と考古学の対立」を眼前に突きつけられたというものだ。

帰京後しばらく、いやいまも揺らいではいる。

それでも、ユダヤ教(旧約聖書+タルムード)=絶対神の信仰というものを考えながら、プライドなどではなく、両面の事柄に真摯に向き合いながら、自分自身の選択をするべきであると思う。

その大前提として、幸い私には「記・紀」を通した「神々の御事績」を素直に信じているという、大安心がある。

   ☆     ☆     ☆     ☆

本年も國の子評論社の活動にご理解、ご支援とご協力をたまわりましたこと、心より御礼申し上げます。

それでは、良いお年をお迎えください。
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今年の思い出①北京・社会科学院日本研究所にて若島さんと
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今年の思い出②比叡山延暦寺〜東寺へ
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今年の思い出③三島・森田両烈士慰霊祭
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天皇陵を巡る旅の最終地。
本来は陵墓である「三島藍野陵」(大阪府茨木市)参拝を目的としていたが、一人ではなかったこともあり、時間の関係で「今城塚古墳」(大阪府高槻市)の見学となった。

下にその陵墓論争の要旨を記すが、考古学的には継体天皇陵だとされるところである。

【第26代継体天皇】
父君・彦主人、母・振姫。応神天皇5世孫。
男系継承のシンボルともされる応神天皇5世・継体天皇の皇位継承である。

【第15第応神天皇の系譜】
ー第16代仁徳天皇
ー第17代履中天皇ーー第23代顕宗天皇(父君履中天皇皇子市辺押磐皇子)ー第24代仁賢天皇(父君履中天皇皇子市辺押磐皇子)ー第25代武烈天皇(皇子なし)
ー第18代反正天皇
ー第19代允恭天皇ー第20代安康天皇
         ー第21代雄略天皇ー第22代清寧天皇

【応神天皇の傍系の系譜】
稚野毛二派皇子ー意富々等王ー乎非王ー彦主人王(継体天皇父君)

彦主人王は近江国にいたが、越前坂井郡の三国にいた振媛を妃とし、継体天皇を生んだ。

武烈天皇が皇子無きままに崩御され、大伴金村が中心となり、物部麁鹿火らとともに継体天皇を越前から迎え、河内の樟葉で即位された。

【陵墓場所論争】
①現陵は江戸時代後期旧島下郡にあり、南北朝時代の条里も同じで『延喜式』の所在と異なるとし、現陵の東北約1.5㎞の旧今城塚古墳(大阪府高槻市)を当陵とする説が出され、この説をとる研究者も多い。

②現陵は享保陵改めには島上・島下の郡界の山にあり、『中川氏御年譜』(永禄から天正の茨木領主家譜)の「摂州図抄」では阿威川が郡界で、旧島上郡にあるので『延喜式』の所在と現陵の所在が異なると断定はできない。

当然のことであるが、ここに宮内庁の陵墓の掲示はない。
綺麗に整備された周辺には、往時を偲ばせる「埴輪祭祀」が行われていたであろう模様が再現されている。

先にも述べたように、墓銘碑などの確実なものがない限り、宮内庁の対応は変わらないだろう。

是非はともかく、ここで祭祀が行われていたことは発掘された埴輪などからも事実なのである。

神道の起源を遡れば、3世紀の纏向遺跡からは「新嘗祭」の原型だといわれるものが見つけられている。4世紀には神宮が創建され、考古学的にも5世紀には神具が多く揃っていたことが明らかになっている。

継体天皇の御在位が507年〜531年ということも、上を裏付けるものである。
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上空から仁徳天皇陵をのぞむ。左後ろに目をやると、履中天皇陵が見えた。右手後方には、陪塚としての古墳群が見える。やがてゆっくりと、古墳円方部に着陸する。体の中心がゾワゾワした。

ヘリコプターをチャーターした訳ではない。

堺市博物館の目玉企画なのだろう、VR体験コーナーで上空から百舌鳥古墳群を眺めるというものだった。

その後、仁徳天皇陵に参拝。

■第16代仁徳天皇
父君は応神天皇、母は仲姫。皇太子と皇位を譲りあうこと3年、皇太子の自死にともない即位して難波高津宮に都し、葛城磐之媛を皇后に立てて、履中・反正・允恭天皇ら四男と、妃の日向髪長媛とのあいだに、一男一女あり。
炊烟のたちのぼらないのを望見して民の困窮を察し、三年間課役を免じて聖帝(ひじりのみかど)とたたえられた。

■御陵・百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらなかのみささぎ)
命名の由緒は、役人が天皇陵を定め、陵の建造をはじめたその日に、現れた鹿がその場にパタリと倒れ死んでしまった。急に死んでしまったことを怪しみ、調べると耳から百舌鳥が現れて飛び去った。これにならい、百舌鳥耳原(もずのみみはら)と名づけられる。

《日本書紀》
六十七年冬十月庚辰朔(ついたち)甲申、河内の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、以て陵地(みさゝぎどころ)を定めたまふ。丁酉、始めて陵を築く。是の日に鹿有り、忽(たちまち)に野中より起きて、走りて役民(えだちよぼろ)の中に入りて仆(たお)れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるを異(あやし)みて、以て其の痍(きず)を探るに、即ち百舌鳥耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉く咋割(くひさ)き剥(かきは)げり。故に其の処を号(なづ)けて、百舌鳥耳原(もずのみゝはら)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。

近年は、父君の応神天皇陵、南側の履中天皇陵とともに、その築造年と崩御年の関係から学問的な疑問が呈され「大山古墳」という名称が使われたりもしている。

HUFFPOSTが、宮内庁陵墓課に取材した記録には、
「元禄年間に朝廷が仁徳天皇の墓と指定しました。宮内庁もこの見解を支持しています。考古学者の間で諸説出ていることは認識していますが、墓碑銘などの100%確実な”仁徳天皇陵ではない”という証拠が出てこない限りは、指定を変える予定はありません」
というものであった。

考古学によって明らかになり、それが後世のためになることは間違いなくあると思う。
しかし、暴けば良いというものではない。

少し前の小説からであるが、徳川光圀の言葉とされるものを引用する。

《如在とは、礼の最も根源的な態度である。
死者や神々が、今そこに在すが如く振る舞う。歴史を記すことも、それと同じである。今は亡き彼らが、そこにいたという事実が永劫不滅であることを知り、その生来の姿を十全に思い描く。それが出来ねば、死者たちが生前に抱いたであろう様々な義もまあた、空虚な言葉に過ぎなくなるだろう。後世に伝えるべき義は、過去にあって人を生かし、今の世にあって人に生きる意義を教えるべきものでなくてはならない。》『光圀伝』冲方丁・角川書店

忠臣楠氏の墓の横に、光圀公の銅像が建つ意味が、すべてを象徴しているのである。

さて、最後の地、継体天皇所以の地に向かおう。