国営飛鳥歴史公園内、キトラ古墳とその壁画体験館の見学を終え、第42代文武天皇陵を参拝。

キトラ古墳の南側の丘陵を5分ほど歩くと御陵である。

「文武天皇は、天武天皇の孫、草壁皇子の子。母はあべの皇女(天智天皇の娘、のちの元明天皇)。天武天皇12年(683)生まれる。持統天皇3年(689)、7歳のとき父を失う。持統天皇10年7月に太政大臣高市皇子が没したのち、翌年2月以前に皇太子となり、同年8月、持統天皇の譲位により15歳で即位。藤原宮で政治をとる。藤原宮子(不比等の娘)を夫人、紀竈門娘・石川刀子娘を嬪とした。文武天皇即位後。持統天皇は太上天皇となり大宝2年(702)に没するまで文武天皇の政治を助けた。」(『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館より抜粋引用)

譲位された持統天皇がはじめて太上天皇と尊称された。

皇位継承にあたり、譲位からの新帝即位は57代。
119代光格天皇が譲位され太上天皇となられたのが最後である。

藤原不比等(史)と文武天皇の関係は様々な歴史の文献に登場する。

最近では、馳星周氏が『比ぶ者なき』(中央公論社)に小説というエンターテインメントではあるが、不比等を「神をも支配した男」として興味深く描いている。一読の価値はある。

文武天皇の御陵名は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

天皇陵は宮内庁によって管理されるが、その領域前には必ず
①○○天皇
②御陵名
③みだりに域内に立ち入らぬこと
④魚鳥などを取らぬこと
⑤竹木等を切らぬこと
   宮内庁
と掲示がされている。

時代状況によって、天皇陵の規模は大きさを変えている。

あるときは、豪族に対する力の誇示であったかもしれない。またあるときは、それらが完全に屈服するほどの権威をもち、御陵の大きさでを力を誇示する必要性もない時代もあった。

時代と天皇陵の規模を比較することは、歴史を見るひとつの形であると思った。

現在、考古学者らの検証では、この地からキトラ古墳をはさんでほぼ対称の位置にある「中尾山古墳」が、石室規模、築造の時代から文武天皇の陵である可能性が高いといわれている。

多くの御陵、古墳に共通することであるが、鎌倉時代の盗掘によって埋葬品はほとんどがなくなっている。

飛鳥の地に、文武天皇の御霊を感じながら参拝させていただいた。
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