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前夜は橿原のホテルで『悠久の天皇陵』(産経・大阪)を著した論説委員による講演を聞いた。

詳細は控えるが、新聞記者として時事に取り組みながら、ライフワークとしての取材も欠かさない姿勢に感銘を受けた。

沖縄に赴任していた宮本雅史さんが、現地で取材されたことを著した『報道されない沖縄』を読み、沖縄で話を聞いたことなどを思い出した。

第十二代景行天皇《大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)》陵参拝

「父君は垂仁天皇、母は日葉洲媛命。
垂仁天皇37年に立太子、同99年垂仁天皇崩御後。即位し、纏向日代宮に都を定める。
皇后播磨稲日大郎姫との間に日本武尊、同八坂入媛命との間に成務天皇・五百城入彦皇子があったほか、計80人の皇子女があった。
治世の間の主要な所伝として、日本武尊の西征・東征がある。
在位60年。御陵名「山辺道上陵」(やまのべのみちのえのみささぎ)
陵の北側に点在する天皇山・松明山・上山の高塚三基は、この陪塚(ばいちょう)として宮内庁が所管する」(『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館より抜粋引用)

【陪塚】とは陵と同時期に築造されたもので、天皇の側近や、親族を埋葬するもののほか、天皇のための副葬品をおさめた墳である。

天皇陵は、さきに記した文武天皇の頃、律令国家として朝廷が決定してきた。戦国時代に、朝廷の力が弱まると、陵の場所がわからなくなったり、盗掘にあうなど荒れてしまうが、徳川幕府の出資により、修陵がさかんに行われるようになった。

明治のはじめに、現宮内庁が認識しているものが天皇陵と呼ばれている。
考古学がまだ成熟を極めていない時代のこと、ゆえに現代において崩御と築造年に時間的齟齬が多く現れるのは仕方のないことだろう。考古学が、ことさらにその使命を帯びているとも思えないし、事実と史実の違いに信仰が揺らぐものでもない。

悠久の天皇陵を巡る旅は、確信に対しどれだけの揺らぎが与えるかと、内心躊躇もあったが、現実を認識しながら信仰を確立することを考える時間になっている。

山辺の道を散策しながら崇神天皇陵へ向かう。