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上空から仁徳天皇陵をのぞむ。左後ろに目をやると、履中天皇陵が見えた。右手後方には、陪塚としての古墳群が見える。やがてゆっくりと、古墳円方部に着陸する。体の中心がゾワゾワした。

ヘリコプターをチャーターした訳ではない。

堺市博物館の目玉企画なのだろう、VR体験コーナーで上空から百舌鳥古墳群を眺めるというものだった。

その後、仁徳天皇陵に参拝。

■第16代仁徳天皇
父君は応神天皇、母は仲姫。皇太子と皇位を譲りあうこと3年、皇太子の自死にともない即位して難波高津宮に都し、葛城磐之媛を皇后に立てて、履中・反正・允恭天皇ら四男と、妃の日向髪長媛とのあいだに、一男一女あり。
炊烟のたちのぼらないのを望見して民の困窮を察し、三年間課役を免じて聖帝(ひじりのみかど)とたたえられた。

■御陵・百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらなかのみささぎ)
命名の由緒は、役人が天皇陵を定め、陵の建造をはじめたその日に、現れた鹿がその場にパタリと倒れ死んでしまった。急に死んでしまったことを怪しみ、調べると耳から百舌鳥が現れて飛び去った。これにならい、百舌鳥耳原(もずのみみはら)と名づけられる。

《日本書紀》
六十七年冬十月庚辰朔(ついたち)甲申、河内の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、以て陵地(みさゝぎどころ)を定めたまふ。丁酉、始めて陵を築く。是の日に鹿有り、忽(たちまち)に野中より起きて、走りて役民(えだちよぼろ)の中に入りて仆(たお)れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるを異(あやし)みて、以て其の痍(きず)を探るに、即ち百舌鳥耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉く咋割(くひさ)き剥(かきは)げり。故に其の処を号(なづ)けて、百舌鳥耳原(もずのみゝはら)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。

近年は、父君の応神天皇陵、南側の履中天皇陵とともに、その築造年と崩御年の関係から学問的な疑問が呈され「大山古墳」という名称が使われたりもしている。

HUFFPOSTが、宮内庁陵墓課に取材した記録には、
「元禄年間に朝廷が仁徳天皇の墓と指定しました。宮内庁もこの見解を支持しています。考古学者の間で諸説出ていることは認識していますが、墓碑銘などの100%確実な”仁徳天皇陵ではない”という証拠が出てこない限りは、指定を変える予定はありません」
というものであった。

考古学によって明らかになり、それが後世のためになることは間違いなくあると思う。
しかし、暴けば良いというものではない。

少し前の小説からであるが、徳川光圀の言葉とされるものを引用する。

《如在とは、礼の最も根源的な態度である。
死者や神々が、今そこに在すが如く振る舞う。歴史を記すことも、それと同じである。今は亡き彼らが、そこにいたという事実が永劫不滅であることを知り、その生来の姿を十全に思い描く。それが出来ねば、死者たちが生前に抱いたであろう様々な義もまあた、空虚な言葉に過ぎなくなるだろう。後世に伝えるべき義は、過去にあって人を生かし、今の世にあって人に生きる意義を教えるべきものでなくてはならない。》『光圀伝』冲方丁・角川書店

忠臣楠氏の墓の横に、光圀公の銅像が建つ意味が、すべてを象徴しているのである。

さて、最後の地、継体天皇所以の地に向かおう。