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謹啓 平成31年年頭にあたり、謹みて皇国の弥栄を祈念いたします。皆様方におかれましては、ますますご清祥のことと心よりお喜び申し上げます。

本年もここに、中村武彦先生、大野康孝宮司遺訓継承・神宮参拝禊会「みそぎ研修の集い」を下記の通り開催いたします。

昨年の 天皇陛下御生誕日の御言葉を拝し、我々は平成の御代に何をなしえたか自問自答せざるを得ません。そして来たるべき御代に、新帝に対し奉りその絶対の忠誠を如何にお誓い申し上げるか。

皇祖鎮まる神都伊勢の地で、みそぎを通じて思いを深くいたしたく思います。

何卒、有縁の道友同志お誘い合せの上、本年の「みそぎ研修の集い」に奮ってご参加頂きたく、謹んでご案内申しあげます。                              謹白

【日 時】 平成31年 3月9日(土)午後1時 〜翌 10日(日)午後1時 閉会
【場 所】 「財団法人 伊勢神宮崇敬会・神宮会館」(宿泊も同所)

※事前登録が必要です。参加希望の方には、実施要項を送らせていただきますので kuninoko@gmail.com まで、ご連絡ください。
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30年式年祭を終えた昭和天皇武蔵野陵
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参道で御奉送
昭和天皇の御崩御より30年。これはそのまま今上陛下の践祚からの年であるが、御代がわりを控えた大きな節目である。

例年通り、御陵に向かうが今日は規制中となっていた。
近くにバイクを止めて参道へ行くと、同志の皆様が陛下の御奉送のため待機されていた。

近くで暫し時間をやり過ごすと、白バイに先導され 天皇皇后両陛下、秋篠宮殿下、皇族方が乗られた車列が通る。最敬礼でお見送りし頭を上げると、目の前の車には安倍総理が乗っていた。

12時30分に規制が解除され、陵に参拝させていただく。

12月25日(大正天皇祭)の参拝は、ほぼ一人だっただけに、この違いはなにかと思わざるを得ないが、それでも激動の時代に皇位にあられた先帝の御事績を偲ぶ人が多くあるということなのだろう。

昨晩は『昭和天皇実録』の頁を追って過ごしていた。
時系列のならびは、思いつくその日、その日がリアルに現れてくる。

昨年の夏、岩井克己氏が『選択』誌上に連載していた「宮中取材余話 皇室の風」をまとめたものが、講談社から刊行された。

その論旨については、手放しで賛同できないものも多くあるが、近くで皇室を取材し続けて見た事実に、学ばされることがたくさんある。

さきの『昭和天皇実録』にまつわる話の中で、こんなものがあった。
《本は、後輩に貸してしまったので、要約・書き出したノートから》
■は抜き書き、()は私見である。

■『昭和天皇独白録』
1946(昭和21)年、東京裁判対策のため側近らが昭和天皇から4日間計8時間にわたり大戦の回顧を聴いた記録。

(1991(平成3)年、『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』として、寺崎の遺族マリコ・テラサキ・ミラーが講談社より出版した。)

■徳川義寛(1988、昭和63年まで侍従長)
「あれの原本は私も見たことがあるが、寺崎さんの『独白録』は原本とはちょっと違うように思う」「宮殿の下にいろいろ保管してあるので、そこにあるかもしれません。世に出ることはないでしょう」

■昭和50年代に当時の入江相政侍従長が19回にわたって昭和天皇の「大東亜戦争回顧」を聞き書きした『聖断拝聴録』が存在する。『独白録』とは比較にならない分量。

■徳川義寛が持ち出し? 遺族が自邸に残されたカバンとともに宮内庁に返却。

■『独白録』『御聖断拝聴録』ともに、実録採用のために捜索したが不明。卜部日記によると天皇自筆の「日記」も香淳皇后の崩御後に見つかったが、側近が副葬品として陵に埋葬してしまった。

(宮内庁とあろうものが、『独白録』『御聖断拝聴録』ともに、捜索したが不明とは、にわかに信じがたい。もしかすると、身近に仕えた者が「守秘ということを忘れ、問わず語りをするよりは」また「政治利用されるおそれ」という考えに基づく賢明な言い訳なのかも知れないと思う)

「陵には、先帝陛下自筆の日記も納められているんだな」そんなことを思いながら、また、いまだ先日の天皇陵を巡る旅を思い出しながら、時代の節目を強く感じ参拝させていただいた。

帰途につかれる皇族方は、どのような思いで参拝されたのだろう。

岩井氏は言う
「政治的妥協で皇室典範が本法と特例法の重層構造となってしまった以上、女性皇族の扱いこそ特例法で乗り切らざるをえないのではないかということだ。毒を食らわば皿まで、である」

為にする謂いであるが、これもまた目を背けてはならない論であることは事実である。
平成31年の年明けから、池田アジア支局長が、インド・インパール、ビルマ・タム方面における、ご遺骨収容調査ならびに戦跡慰霊巡拝を行った。

毎年数次にわたる調査活動は、過去の『國の子評論』を参照いただきたい。

     ☆    ☆    ☆    ☆

【池田支局長の過去記事から】
■ガイド青年の戦争博物館
活動を共にする現地のボビー青年は自宅を改装し、みずからが収集した資料を展示している。

彼は現在「Imphal Campaign - WW2」と言う基金を主宰しながら、この活動のなかで各地から寄せ集められた情報をもとに、日本軍、イギリス軍などの戦跡調査などをおこなっている。

そのなかで、ご遺骨も見つかる場合がある。
なかにはサンシャーク村で昨年見つかった歯や靴底、大腿骨、階級章などもある。

     ☆    ☆     ☆     ☆

昨年、そんな活動に対し、日本の財団から2700万ルピー(4000万円)の基金が供出され、レッドヒル慰霊塔横に戦争のメモリアル施設が建築された。しかし現実には、戦争関連のものの展示はキャンセルされ「平和メモリアル」という訳の分からない用途に供されることになったようである。
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インド・ビルマ方面活動記事
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ビルマ、カレーミョ地区活動記事
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建築前はIMPHAL WAR MUSEUMの看板だったのだが…
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平成31年 初富士
本年もよろしくお願いいたします。

新年早々のニュース速報は「新元号」公表を4月1日に行うというものであった。

誰の都合かわからないが、はたしてそれで良いのか。

過去200年、譲位による新帝即位がなかったことは事実である。だれも経験したことのない御代がわりである。

しかし、これまで御在位中の天皇が、次の御代の元号を決められたことがあったか。

新帝の勅許のない元号の御代があり得るのか。

ネットにおけるこのニュースへの反応は、伝統護持派と破壊者(西暦推進)が拮抗しているように感じた。しかしこれは、免許証の西暦使用問題とはあきらかに次元が違う。

免許証の表記から、伝統が崩れていくという考え方もあるが、もっと根源的な問題なのである。

践祚、改元を唯一の道とするべきである。

改元後、時間をおいて行政がそれを正式に使用すれば良いだけのことである。

安易な公表をやめよ!

平成31年の幕開けとは、戦いの幕開けでもある。

北陸から淀川を超えたはじめての天皇が継体天皇である。

これを、水運を掌握していたとして、朝鮮までその勢力を持ったと書くのは『継体天皇と朝鮮半島の謎』(水谷千秋・文春新書)である。これも興味深い論である。

その後、大和に入るまでの20年間を、対立・抗争の時代とし、のちに大和の勢力を圧倒して皇位を継承するとともに、手白髪(香)皇女を皇后として地位を確立したという説は、『日本書紀』の応神天皇5世というものも含めて潤色だとする論である。

これを簡単に否定してしまうことは容易いのかもしれないが、信仰にとっての堕落でもあるような気がしてならない。

例えば「進化論」の論争のなかで象徴的なもののなかに、
①神がこの世を創造したことは誰も証明できない。
②猿から進化した人を誰も知らない。
という対立がある。

この両論は、どちらも正しい。

進化論が、学問的に解決が可能なのことなのかはわからないけれども、神話を真実とした強固な信念と、時間とランダムな変化が続くことで成立する進化論は永遠に対立するのだろう。

今回の天皇陵を巡る旅も、表向きの結論は「神話と考古学の対立」を眼前に突きつけられたというものだ。

帰京後しばらく、いやいまも揺らいではいる。

それでも、ユダヤ教(旧約聖書+タルムード)=絶対神の信仰というものを考えながら、プライドなどではなく、両面の事柄に真摯に向き合いながら、自分自身の選択をするべきであると思う。

その大前提として、幸い私には「記・紀」を通した「神々の御事績」を素直に信じているという、大安心がある。

   ☆     ☆     ☆     ☆

本年も國の子評論社の活動にご理解、ご支援とご協力をたまわりましたこと、心より御礼申し上げます。

それでは、良いお年をお迎えください。
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今年の思い出①北京・社会科学院日本研究所にて若島さんと
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今年の思い出②比叡山延暦寺〜東寺へ
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今年の思い出③三島・森田両烈士慰霊祭
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天皇陵を巡る旅の最終地。
本来は陵墓である「三島藍野陵」(大阪府茨木市)参拝を目的としていたが、一人ではなかったこともあり、時間の関係で「今城塚古墳」(大阪府高槻市)の見学となった。

下にその陵墓論争の要旨を記すが、考古学的には継体天皇陵だとされるところである。

【第26代継体天皇】
父君・彦主人、母・振姫。応神天皇5世孫。
男系継承のシンボルともされる応神天皇5世・継体天皇の皇位継承である。

【第15第応神天皇の系譜】
ー第16代仁徳天皇
ー第17代履中天皇ーー第23代顕宗天皇(父君履中天皇皇子市辺押磐皇子)ー第24代仁賢天皇(父君履中天皇皇子市辺押磐皇子)ー第25代武烈天皇(皇子なし)
ー第18代反正天皇
ー第19代允恭天皇ー第20代安康天皇
         ー第21代雄略天皇ー第22代清寧天皇

【応神天皇の傍系の系譜】
稚野毛二派皇子ー意富々等王ー乎非王ー彦主人王(継体天皇父君)

彦主人王は近江国にいたが、越前坂井郡の三国にいた振媛を妃とし、継体天皇を生んだ。

武烈天皇が皇子無きままに崩御され、大伴金村が中心となり、物部麁鹿火らとともに継体天皇を越前から迎え、河内の樟葉で即位された。

【陵墓場所論争】
①現陵は江戸時代後期旧島下郡にあり、南北朝時代の条里も同じで『延喜式』の所在と異なるとし、現陵の東北約1.5㎞の旧今城塚古墳(大阪府高槻市)を当陵とする説が出され、この説をとる研究者も多い。

②現陵は享保陵改めには島上・島下の郡界の山にあり、『中川氏御年譜』(永禄から天正の茨木領主家譜)の「摂州図抄」では阿威川が郡界で、旧島上郡にあるので『延喜式』の所在と現陵の所在が異なると断定はできない。

当然のことであるが、ここに宮内庁の陵墓の掲示はない。
綺麗に整備された周辺には、往時を偲ばせる「埴輪祭祀」が行われていたであろう模様が再現されている。

先にも述べたように、墓銘碑などの確実なものがない限り、宮内庁の対応は変わらないだろう。

是非はともかく、ここで祭祀が行われていたことは発掘された埴輪などからも事実なのである。

神道の起源を遡れば、3世紀の纏向遺跡からは「新嘗祭」の原型だといわれるものが見つけられている。4世紀には神宮が創建され、考古学的にも5世紀には神具が多く揃っていたことが明らかになっている。

継体天皇の御在位が507年〜531年ということも、上を裏付けるものである。
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上空から仁徳天皇陵をのぞむ。左後ろに目をやると、履中天皇陵が見えた。右手後方には、陪塚としての古墳群が見える。やがてゆっくりと、古墳円方部に着陸する。体の中心がゾワゾワした。

ヘリコプターをチャーターした訳ではない。

堺市博物館の目玉企画なのだろう、VR体験コーナーで上空から百舌鳥古墳群を眺めるというものだった。

その後、仁徳天皇陵に参拝。

■第16代仁徳天皇
父君は応神天皇、母は仲姫。皇太子と皇位を譲りあうこと3年、皇太子の自死にともない即位して難波高津宮に都し、葛城磐之媛を皇后に立てて、履中・反正・允恭天皇ら四男と、妃の日向髪長媛とのあいだに、一男一女あり。
炊烟のたちのぼらないのを望見して民の困窮を察し、三年間課役を免じて聖帝(ひじりのみかど)とたたえられた。

■御陵・百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらなかのみささぎ)
命名の由緒は、役人が天皇陵を定め、陵の建造をはじめたその日に、現れた鹿がその場にパタリと倒れ死んでしまった。急に死んでしまったことを怪しみ、調べると耳から百舌鳥が現れて飛び去った。これにならい、百舌鳥耳原(もずのみみはら)と名づけられる。

《日本書紀》
六十七年冬十月庚辰朔(ついたち)甲申、河内の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、以て陵地(みさゝぎどころ)を定めたまふ。丁酉、始めて陵を築く。是の日に鹿有り、忽(たちまち)に野中より起きて、走りて役民(えだちよぼろ)の中に入りて仆(たお)れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるを異(あやし)みて、以て其の痍(きず)を探るに、即ち百舌鳥耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉く咋割(くひさ)き剥(かきは)げり。故に其の処を号(なづ)けて、百舌鳥耳原(もずのみゝはら)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。

近年は、父君の応神天皇陵、南側の履中天皇陵とともに、その築造年と崩御年の関係から学問的な疑問が呈され「大山古墳」という名称が使われたりもしている。

HUFFPOSTが、宮内庁陵墓課に取材した記録には、
「元禄年間に朝廷が仁徳天皇の墓と指定しました。宮内庁もこの見解を支持しています。考古学者の間で諸説出ていることは認識していますが、墓碑銘などの100%確実な”仁徳天皇陵ではない”という証拠が出てこない限りは、指定を変える予定はありません」
というものであった。

考古学によって明らかになり、それが後世のためになることは間違いなくあると思う。
しかし、暴けば良いというものではない。

少し前の小説からであるが、徳川光圀の言葉とされるものを引用する。

《如在とは、礼の最も根源的な態度である。
死者や神々が、今そこに在すが如く振る舞う。歴史を記すことも、それと同じである。今は亡き彼らが、そこにいたという事実が永劫不滅であることを知り、その生来の姿を十全に思い描く。それが出来ねば、死者たちが生前に抱いたであろう様々な義もまあた、空虚な言葉に過ぎなくなるだろう。後世に伝えるべき義は、過去にあって人を生かし、今の世にあって人に生きる意義を教えるべきものでなくてはならない。》『光圀伝』冲方丁・角川書店

忠臣楠氏の墓の横に、光圀公の銅像が建つ意味が、すべてを象徴しているのである。

さて、最後の地、継体天皇所以の地に向かおう。
すべての報道が、天皇陛下の「退位」と報じるなか、天皇誕生日における陛下の会見では「譲位」という御言葉をお使いになられている。

平成28年8月8日の会見でもそうであった。

天皇国日本である。政教問題を論う枝葉末節の議論を排したい。

元号公表問題もまたしかり。

政治や経済などどうでもいい。践祚、そして改元を発表するべきである。
崇神天皇陵参拝を終え、近くの天理市立黒塚古墳展示館を見学。

竪穴式石室と三角縁神獣鏡が有名な古墳であるという。パンフレットには卑弥呼の里とある。

「三角縁神獣鏡」の解説をその見学パンフレットから転載する。

《黒塚古墳からは33面の三角神獣鏡が出土しました。この型式の鏡は、背面に神獣を配し、周縁が山形に鋭く尖る形をしているためにこのように呼ばれています。鏡は直径が平均して22センチメートル、重さは1キログラムにもなり、鏡の裏側には中国の吉祥句を記した文章や神仙、霊獣などが表現されています。

古代の首長たちが、鏡に表現された不老不死や神仙思想という中国の思想を受け入れたと考えられています。

また、黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡は、初期ヤマト政権のあり方や邪馬台国の所在論争とも無関係ではなく、これからの解明がまたれます。》

鏡のレプリカを持ってみた。とても重かった。

学者さんたちの解明を楽しみにしています…。
(いまだ古墳そのものに興味をそそられないからとはいえ、小学生の感想文のようにしかならず恥ずかしい)

鏡は高天原で伊斯許理度売命が鋳ったものが最初だと僕は思っています。

さあ、旅も佳境である。

「世界遺産を大阪に」のスローガンで盛り上がる百舌鳥古墳群へいざ!
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復元された竪穴式石室と鏡の配置