氏神様〜靖国神社〜明治神宮へ月次の参拝

靖国神社元宮は、いまだ衛士に許可を得て、立ち会いのもとに参拝。不逞韓国人の愚行ゆえなり。
参道では、みたままつりの準備が進んでいた。民族革新会議として、初日に正式参拝する予定。

明治神宮は、相変わらず外国人が多い。手水をとっているときに、中国人に写真を撮られまくったが、無視しておいた。

参拝後、国会図書館で調べもの。

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明治神宮からの帰りにふと思い立ち、30年近く前に、原宿でアルバイトをしていたあたりを歩いた。不義理をしてしまい、足が遠のいていたところだ。

有名なオープンカフェや、ビートルズの曲のタイトル「ペニーレーン」を店名にした喫茶店のある路地の、その奥にアルバイトをしていた店があった。

オープンカフェは、形を変えビルの1階にあった。いや、経営が一緒なのかもわからなかった。たしか、服飾のJUNがやっていたお店だったと思う。

ペニーレーンがあった場所は、餃子屋さんになっていた。ペニーレーンや、その正面にあった飲み屋には、よくミュージシャンや芸能人がよく遊びに来ていた。

その飲み屋の常連で、ジョセフというフランス人のオッサンにビリヤードを習った。
狙い通りに球を撞くと「ブラボー」といってホメてくれた。

その路地を抜けると、まったく見覚えのないビルが建っていた。

当時とは、景色がまったく違っている。バブルから20年近い日々が過ぎているのだから当たり前かもしれないが…。

たくさんのバーや飲食店がはいっていたレンガタイルのビルは、コンクリート打ち放しのの無機質なビルに姿を変えていた。

楽しかった思い出があるぶん、とても寂しい気持ちになった。

オシャレな若者が、たくさん歩いていた。きっと、あのころの私と同じ年頃なのだろう。

彼らからみれば、私は街に不似合いな、ガラの悪いオッサンにしか見えなかったかもしれない。

「お前らもすぐ歳をとっちまうんだぜ」なんて思いながら、それでも「若いときはオシャレも遊びも無茶したほうがいい」なんて、オッサンになった私は、若者たちをまぶしく見ていた。

表参道と明治通りの交差点。ラフォーレの前には「セントラルアパート」という建物があった。芸能人も多く住んでいたように思う。建物中央の吹き抜けにはオシャレなカフェがあった。

当時は行ったこともないのに、ヨーロッパのようだと思った。

私には敷居が高い場所だった。とにかくオシャレでカッコいいオトナたちがいっぱいいた。

同じビルの表参道側に面した「レオン」という喫茶店に、私はよく通っていた。
その店員が、私のアルバイトしていた店に通っていくれてもいた。

そう、その横には、扉一枚分くらいの幅で「MILK」のブティックがあったのも思い出した。
当時は、MILKやPINKHOUSEの服を着ている女性が好きだった。いや、Y'sなどの真黒い服を着て、唇に色のない女性も好きだった。いや、みんな好きだった。

大橋歩さんの描くPINKHOUSEの服のイメージが好きだったな。

数ヶ月前、facebookで再会した文化学院の先輩の彼女が「PINKHOUSE」の服を着ていた。キレイなモデルさんだった。その彼女とは偶然にも、数年前に我が社の小島君のLiveで再会した。

「変わらないね」と言ったら、「そんなことない」と怒られた…。

あの頃、ananのモデルだった小泉馨さんに恋していた。(私の長女の名前が「馨」なのは…)
ミュージシャンの立花ハジメさんと交際が噂されたときが、私がはじめてテロを考えた時かもしれない(笑うところ)。

Y's  COMME des GARÇONS BIGI  

デザイナーズブランドの服は、ラフォーレや丸井のクレジットで買った。

オシャレをして、モンクベリーズやムーブ、ピテカンなんてところで朝まで踊った。

なんだか、思い出があふれ出てきて、とまらないな。

田舎から出てきた少年が、東京人を気取りはじめた18歳から21歳くらいのことだ。

その頃、時々に上京していた鹿児島の祖父を得意になって案内した。

ただ、祖父の行きたがる場所は、もちろん原宿などではなく、きまって靖国神社と明治神宮と
皇居だった。

いまは、私の月次のルートになっているのが不思議だけれど…。

皇居前広場で正座をして頭を垂れる祖父を、まだ不思議な気持ちで眺めていた頃の話だ。

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ずっと後のことであるが、明治神宮が神楽殿を造るにあたり、5千円を奉納できたことをとても喜んでいた祖父。ちいさな神社の社務所に住んで、奉仕をしながら慎ましく暮らしていた。そんなこともあって…。
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式年遷宮の年 尊い御製と御歌である
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福島県田村市の避難指示解除準備区域除染に関する不法投棄の問題に取り組んでいる。

除染作業に従事した作業員が、大いなる後悔と反省のもとに勇気を持って告発してくれた事案である。自らが、不法投棄の場所を指し示し、撮影した写真をそえてくれている。

これをもとに、当該作業を受注した大手ゼネコン3社に事実関係を調査し、問題点を是正すべきであると文書を出した。その中では、私どもに寄せられた写真についての見解を求めるべく面談も要求した。しかし、結果は、内部調査をしたことなどまったくうかがえず、その意味不明な回答書の最後には、面談を拒否する旨のことが書かれていた。

後に知ったことであるが、当方が文書を送付した翌日には、当該ゼネコンが所在する所轄警察署に、事件化の恐れがあるからと届け出ていたようである。

恥という概念がないのだろうか。

ここで、一方的に大手ゼネコンからの対話の回路は遮断された。

よって、当方は次の手段として、この事業の発注者である環境省に、この事案を説明する機会をいただきたいと、面談のアポイントをとるための電話を入れた。

通話の記録を見ると、20分間だった。しかし、実際に話したのは5分にも満たないであろう。
私の電話からは、つねに保留音が鳴り続けていた。

あげくの果てには、身分を明かせ、携帯電話の番号を教えろ。折り返し連絡を入れる。さんざん待たせた結果がこれである。しかも、その役人は、いっさい名前を明かすことがなかった。

折り返し掛かってきた電話の内容は、
「告発者自らが出向くのであれば、話を聞く。第三者からの告発は一切受け付けない」というものであった。

血税を使って事業を発注した者のとる態度であろうか?

因みに環境省は、あらかじめアポイントがなければ、庁舎内に入ることすら出来ない。入り口のガードマンによって、厳重に警備されているのである。すなわち、当方が面会を求めて制止を振り切り庁舎内に入ろうとすれば、その時点で「建造物侵入」などの罪で逮捕されることになるのだろう。

当方を信じて告発してくれた作業員を、下衆な応対しか出来ない国の機関に差し出すことなど出来るはずもない。

大手ゼネコンも、環境省もことの重大さを理解できないのだろうか?

まぁ、なにが起きても不思議ではないご時世なので、あらかじめこんな取り組みをしていることを、ここに記しておく。




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本渡諏訪神社 大野康孝宮司と戦跡巡拝をさせていただいたときの一コマ 
6月13日『沖縄タイムス』の特集「岐路の憲法ーわたしの視点」に、私と同世代の知念ウシさんというライターの意見が掲載されていた。

以下に引用する。

「自民党が戦前に戻ろうとするなら、沖縄も(日本に組み込まれた1872年からの)琉球併合(琉球処分)の時点まで戻り、東アジア全体の近代を捉え直すのが筋だ。
 人権を守るために、沖縄の人が自分たちの憲法を持ちたいと思うのは自然なこと。5月、日本からの独立を研究する『琉球民族独立総合研究学会』が若い人を中心に設立された。歴史の転換点になるのではないか」

こういった意見を掲載するところが、新聞ではなく「ある意図をもった組織の機関紙」といわれる所以であろう。さすが「住民からみた沖縄戦の記録」と銘打ちながら、米国の思惑のままにヤマトを批判する『鉄の暴風』という本を出しただけの新聞社だけのことはある。

自民党が戦前に戻ろうとしているとは、いったいどれだけの人が思っているのだろうか? 理解に苦しむ論である。

いっぽう、彼女の言う「琉球独立」という論理・主張が一面の真理でもあることは確かだ。

少なくとも過去に、独立した王朝と文化が存在した。きっと私も、そこに生まれ育っていれば、独立に命をかけることをロマンとしたかもしれない。

そして、独立を前提とするのであれば、東アジア全体の近代における、沖縄(琉球)に課せられた命題を捉え直さなければならないことも同意できる。

中国が隷属下であることを主張し、米国がキーストーン(要石)と定義したように、琉球の存在の確立は「独立の意志」とともに、近代の覇権主義との戦いでもあるはずだからである。

琉球侵攻は薩摩が、大東亜戦争はアメリカが、沖縄を盗るために起こした戦争だった。
米軍内には、いまだに「沖縄は若い米兵の血で購った島」であるという論もある。

戦争に勝利したアメリカは、当然の如く占領下に強制した憲法に基づき、軍事同盟という足枷を利用して沖縄に君臨し、あらたなアジア覇権を虎視眈々と狙いつづけている。

この状況下、独立を前提とする沖縄の人たちの人権と憲法とはいかなるものになるのか。

想像できるのは、壮絶な地上戦を経験したがゆえにある、非武装そして平和であろう。

しかしそれでは、繰り返す歴史の前にまた呆然とたたずむしかなくなってしまうのではないか。

彼らの憎むかつてのヤマトのように、中国・台湾・韓国・米国が虎視眈々と島を狙うだろう。

琉球独立という思想は心情的には理解できる。

しかし私は、大東亜戦争において沖縄の海に散った特攻隊員のあまたの命、大和乗組員たちの命、そして凄惨苛烈な地上戦を戦った県民と旧軍の人々の命の重みの前に、手放しでそれを支持することを躊躇せざるを得ない。

なぜならばそれは、祖国日本を守る戦いであったからに他ならないからである。

これは、われらの民族主義と琉球民族主義というイデオロギーの対決を生じさせることにもつながるだろう。

個人的な信頼や友情を、イデオロギーとは意図も簡単になきものにする。

憲法改正の命題は「歴史ある国柄」と「自存自衛」の明記である。

自存自衛の根本は武力である。

一方、沖縄の悲しみは「武器を花に」という思想に昇華している。

それでも花畑は、覇権に踏み荒らされる宿命がある。

刑務所に花壇など不必要だと、それを刑務官が破壊したという話は、野村秋介先生の本に記されていたことだったか。

覇権とはそういうものだ。

われらに共通の「花壇」を守るとは。

梅雨が明けたのに、堂々巡りをする私のアタマのなかは、どんよりとしている。
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昭和8年7月11日の神兵隊蹶起予定の日からちょうど80年。
なにかを書こうと思ったが、心がザワザワするばかりでなにもまとまらず。

深夜に、氏神様と忠魂碑に参拝する。

それにしても、暑すぎる!
今回、どのような方が候補になっているのか知らなかったが、数ヶ月前に書店でたまたま手に取って読んだ本が受賞した。

桜木紫乃さん。北海道出身で私と同い年の女性作家だ。

受賞作は『ホテルローヤル』

ひとつの舞台を取り巻く短篇の連作だ。

その中でも「星をみていた」だったか?(手元に本がないので)その篇に私はとても感動した。

いや、感動しないヤツとは友達になれないね! とも思った。

続けざまに、出版されているものを取り寄せて読んだ。
その多くが、私にも少なからぬ縁がある北海道を舞台にした、そして女性の物語だ。

強いけれども儚く、夢見るけど裏切られ…。

良い作品ばかりである。

受賞作がいま手元にないのは、その作家の本すべてを函館の獄の友に差し入れているから。

彼からのこれまでの手紙には、小難しい本のことばかりが書き連ねられていたが、これらの本を入れたあとの手紙にはひとこと(彼の育った北海道の)「情景が浮かんできます」とあった。

ヤツは泣いたな。

味気ない生活の中で、一冊の本に心揺すられる涙もよいだろう。

ふとラジオから聞こえた受賞のNEWSに笑みがこぼれた。けれども、獄の友にLINEで知らせてやることもできないので、いつのまにかここに駄文を記した。
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例会に参加

上野公園内、渥美勝命が演説の地にて拝礼。
場所を移し、講演など。

代表による「本年世界遺産に認定された富士山と桃の会について」
副代表による「渥美思想における出雲的なるものの意義について」
       ー式年遷宮、出雲大社大遷宮の年に思うー 


【渥美勝命 遺文】
「宣言」
皇大命(すめおほみこと)を御中に
清く、やさしく、強く
偕(とも)に食ひ、偕に働き、偕に楽しみ
天地拓(あめつちひら)きて、宮柱太敷立て
無窮(とこしへ)に伸展(の)び、各自各(おのもおのも)のミコト果たさな
                            國の子 桃太郎

【遺詠】
檍原(あはぎはら)涙の瀬戸に我死なむミコトしあらば唯国の為に生きむ
日向のや高千穂の根にわが立てばひむがしの空ゆ旭さしのぼる


自己の歩み、そして戦後体制を徹底的にみそぎされた精神で告り直す。
そんなことを思った次第。