仙台での三島由紀夫・森田必勝両烈士「蹶起前夜遺志顕彰祭」「年忌法要」を終えて、四日市へ。

大治田にある森田必勝烈士の墓前に奉告。

今年の野分祭がどちらで行われたかは知らないが、命日には多くの方が参詣されたのであろう、きれいなお花が供えてあった。

もう10年以上前のことであるが、墓参を案内して下さった必勝烈士のお兄様から「多くの方がおまいりしてくれるので、必勝のお墓を分けたんです」と聞いたことがある。

そのデザインにある姿を思い浮かべるが、誤解があるといけないのでここでは差し控える。

墓石に刻まれた25歳という年齢に、いつも愕然とさせられるのである。
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左が森田家、右が必勝烈士のお墓
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昭和45年11月25日没 25歳
いまNHKで「ぬけまいる」というドラマが放映されている。

直木賞作家の朝井まかてさんの同名原作で、とても面白く読んだことを覚えている。

ドラマでは、各週のそのスピード感がなんとももどかしいが、好きな女優さんも出ているので楽しく見ている。

ドラマはまだまだ伊勢にたどり着かないが、往時の人々がひしゃくを持って歩いたであろう旧伊勢街道をバイクで走ってみた。

あの常夜灯は、何人のぬけまいり人を見たのだろうか。
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旧伊勢街道と常夜灯
齢を重ねてきて、あと何回これができるのだろうかということを考える時がある。

年に一回の行事ともなれば、なおさらのことだ。

jujuさんの歌に「また明日」という歌があるが、そう言ってもまた会えないこともある。

神宮参拝禊会に参加させて頂くようになって、毎年神宮に参拝することができるようになった。

バイクに乗って、志摩の友人を訪ねるようにもなり、伊勢がますます身近になった。

今年9月に、志摩でのみそぎ会が開催されるにあたり、前夜にバイクで東京を出てはじめて神宮の早朝参拝をさせて頂いた。

体全体が神聖に包まれるという感動があった。

それでもたびたび来られるところではない。

3月と9月の禊会のほか、6月と12月の1日を早朝参拝の日にしようと決めた。

前回9月の時は、開門時すでに明るくなりかけていたが、今回はまだまだ漆黒の闇であった。

とくに倭姫宮では、参拝者はわたし一人だけであった。内宮にくらべて灯りも極端にすくなく、神と対峙する濃密な時間を過ごさせて頂いた。

次は禊会の時に参拝させて頂く。

人生のうちあと何度、お伊勢参りができるのだろうか。

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夜明けを告げていた
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神秘のひとことである
運動に入った当初といまを比べると、明らかに変わったことがある。

多くのものごとについて、強く断定的に述べ、書くことができなくなった。

本当にこれで良いのだろうか。このことによって、誰かを傷つけていないか。そういった様々な躊躇のなかで、もっと考えなければと思い続ける。なかば、自信の喪失という気もしていた。

しかし、最近読んだふたつの論旨に、それもある意味正しい道程なのかもと思わされた。

「無知は極端に走りがちである。ー自分の知らないことについての意見はどうも、バランスのとれた穏健なものではなさそうだ」(『波止場日記』エリック・ホッファー)

「人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合他人の意見を受け売りしているときだ。自分の固有の経験的厚みや実感を伴うかぎり、それはめったなことでは『すっきり』したものになりません」(『日本辺境論』内田樹)

なんとなく、救われた気分である。
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労働と思索  憧れである
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中国との関係を考える良いテキストになった
後醍醐天皇への忠義を絶対として生き死にした大楠公の御霊の前に立つ。

『大日本史』『日本外史』『太平記』

学問への希求は果てないが、読むべき本はこれだけで良いのかもしれない、などと思う。

その後の神戸護国神社までの道行きには、某本家をこっそり見学した。ちょっと緊張した。

護国神社から見た既視感のままに歩いて、安藤忠雄さんの建築群を見に行った。

神宮式年遷宮の年、御霊が正殿に移られた直後の、旧正殿の間近まで入らせていただく機会があった。

役目を終えた途端に、朽ちるという建築の現実を目の当たりにしながら、これもまた建築美なのだと思った。

数十年ぶりの、安藤建築は、新旧作品が共存していたが、古いものもきれいに磨かれていた。それによって、資産的価値はさほど落ちるものではないのかもしれない。

形あるものは永遠ではない。ゆえに美しいのではないかと思う。
反面、経済行為では受け入れられるものではないのだろう。

そう考えながら、楠公の精神が永遠である所以はなにかと思う。

それこそが時代を経てもまた、人々によって磨き続けられている証しなのだ。

楠公精神とは、生きる上での絶対美なのである。
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神武天皇陵
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橿原神宮〜神武天皇陵参拝

ホテルの窓から畝傍山が綺麗に見えていた。
今日から、「悠久の天皇陵」を訪ねる。

ひとつの懸念は、「考古学」という学問が「絶対の信仰」にどのような影響を及ぼすのか。また及ぼされるのか。

津田左右吉博士は、
「朝廷において皇室の由来を語る神代の物語がつくられたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその降られた土地がヒムカとせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語が作られたのである」

つくられたものが、歴史的事実ではない。
しかし、事実と信仰の史実にはふたつの理解があって当然であり、それらがバランス感覚を持つことによって、ある種の異常さを排除できるのだと思う。

大陸から渡ってきた「鉄」は、九州から瀬戸内を通って大和へ流れていったことは学問的に明らかな事実である。(東征の時代考証についての差違と事実)

その考古学によって、陵墓についても時代状況などいろいろなことが明らかになってきている。

絶対の信仰と学者との対話。

津田博士の『建国の事情と万世一系の思想』は、昭和15年に政府によって発禁処分にされている。
大東亜戦争へと向かう時に、危険な書とされたものに、不都合を感じる人々がいたと同時に、ある意味の真理も存在するのだろう。

学問で明らかになった事実を真摯に受け止めながら、私の信仰の絶対性を確認するつもりである。
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虎塚古墳壁画(イマ見ても怖い)
天皇陵を訪ねる旅を終えてしばらく経つが、近所の公園の築山などをみるたびに、古墳なんじゃねぇの? と思ってしまう。後遺症かもしれない。

昭和48年の発掘だと記録にあるから、私が9歳の時だ。自宅から副長の家のほうへ10㎞ほど進んだところで、明治大学の教授らによって虎塚古墳が発掘され話題となった。

石室内部からは、成人男子の遺骸が1体と大刀、槍鉋、鉄鏃、鉄板などの副葬品が出土した。

すぐに一般公開され、自転車で見に行った。けっして興味があったとは思えない。学校の課題だったのだろうか。

石室内に描かれた幾何学模様が恐ろしくて仕方なかった。
帰り道の夕焼けをよく覚えている。

【今回は明日香村のキトラ(亀虎? 北浦?)古墳】

40代天武天皇の皇子(高市皇子)もしくは、側近の高官(右大臣の阿倍御主人)が埋葬されたとされている。

石室内部に塗った漆喰の上に「朱雀」「玄武」「青龍」「白虎」そしてその下には3体づつ、計12の獣頭人身(12支)があり、天井には「天文図」が筆で描かれている。

天文図の正確さが、学術的に評価されているようだが、私にはよくわからない。

すぐ近くに檜隈寺跡がある。渡来系氏族、東漢氏の氏寺とされる古代寺院跡だ。7世紀後半の創建。中世には道興寺とも称された。現在は、明治期に建立された於美阿志神社が建っている。
本居宣長も此の地を訪れている。

飛鳥への最初の渡来人は檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)で、その時期は457年・雄略天皇2年とされ、彼の子孫らはやがて東漢(やまとのあや)一族となり、のちの飛鳥文化形成に大きな役割を果たしたと、資料館の解説にあった。

明日香・飛鳥地区は、建築が制限されている。
古代のままに時間が流れている。あいにくの雨模様だったが、それがつくりだす靄も往時を偲ばせるようでなんともいいがたい気分にさせられた。

ただのレポートになってしまった。
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国営飛鳥歴史公園内、キトラ古墳とその壁画体験館の見学を終え、第42代文武天皇陵を参拝。

キトラ古墳の南側の丘陵を5分ほど歩くと御陵である。

「文武天皇は、天武天皇の孫、草壁皇子の子。母はあべの皇女(天智天皇の娘、のちの元明天皇)。天武天皇12年(683)生まれる。持統天皇3年(689)、7歳のとき父を失う。持統天皇10年7月に太政大臣高市皇子が没したのち、翌年2月以前に皇太子となり、同年8月、持統天皇の譲位により15歳で即位。藤原宮で政治をとる。藤原宮子(不比等の娘)を夫人、紀竈門娘・石川刀子娘を嬪とした。文武天皇即位後。持統天皇は太上天皇となり大宝2年(702)に没するまで文武天皇の政治を助けた。」(『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館より抜粋引用)

譲位された持統天皇がはじめて太上天皇と尊称された。

皇位継承にあたり、譲位からの新帝即位は57代。
119代光格天皇が譲位され太上天皇となられたのが最後である。

藤原不比等(史)と文武天皇の関係は様々な歴史の文献に登場する。

最近では、馳星周氏が『比ぶ者なき』(中央公論社)に小説というエンターテインメントではあるが、不比等を「神をも支配した男」として興味深く描いている。一読の価値はある。

文武天皇の御陵名は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

天皇陵は宮内庁によって管理されるが、その領域前には必ず
①○○天皇
②御陵名
③みだりに域内に立ち入らぬこと
④魚鳥などを取らぬこと
⑤竹木等を切らぬこと
   宮内庁
と掲示がされている。

時代状況によって、天皇陵の規模は大きさを変えている。

あるときは、豪族に対する力の誇示であったかもしれない。またあるときは、それらが完全に屈服するほどの権威をもち、御陵の大きさでを力を誇示する必要性もない時代もあった。

時代と天皇陵の規模を比較することは、歴史を見るひとつの形であると思った。

現在、考古学者らの検証では、この地からキトラ古墳をはさんでほぼ対称の位置にある「中尾山古墳」が、石室規模、築造の時代から文武天皇の陵である可能性が高いといわれている。

多くの御陵、古墳に共通することであるが、鎌倉時代の盗掘によって埋葬品はほとんどがなくなっている。

飛鳥の地に、文武天皇の御霊を感じながら参拝させていただいた。
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前夜は橿原のホテルで『悠久の天皇陵』(産経・大阪)を著した論説委員による講演を聞いた。

詳細は控えるが、新聞記者として時事に取り組みながら、ライフワークとしての取材も欠かさない姿勢に感銘を受けた。

沖縄に赴任していた宮本雅史さんが、現地で取材されたことを著した『報道されない沖縄』を読み、沖縄で話を聞いたことなどを思い出した。

第十二代景行天皇《大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)》陵参拝

「父君は垂仁天皇、母は日葉洲媛命。
垂仁天皇37年に立太子、同99年垂仁天皇崩御後。即位し、纏向日代宮に都を定める。
皇后播磨稲日大郎姫との間に日本武尊、同八坂入媛命との間に成務天皇・五百城入彦皇子があったほか、計80人の皇子女があった。
治世の間の主要な所伝として、日本武尊の西征・東征がある。
在位60年。御陵名「山辺道上陵」(やまのべのみちのえのみささぎ)
陵の北側に点在する天皇山・松明山・上山の高塚三基は、この陪塚(ばいちょう)として宮内庁が所管する」(『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館より抜粋引用)

【陪塚】とは陵と同時期に築造されたもので、天皇の側近や、親族を埋葬するもののほか、天皇のための副葬品をおさめた墳である。

天皇陵は、さきに記した文武天皇の頃、律令国家として朝廷が決定してきた。戦国時代に、朝廷の力が弱まると、陵の場所がわからなくなったり、盗掘にあうなど荒れてしまうが、徳川幕府の出資により、修陵がさかんに行われるようになった。

明治のはじめに、現宮内庁が認識しているものが天皇陵と呼ばれている。
考古学がまだ成熟を極めていない時代のこと、ゆえに現代において崩御と築造年に時間的齟齬が多く現れるのは仕方のないことだろう。考古学が、ことさらにその使命を帯びているとも思えないし、事実と史実の違いに信仰が揺らぐものでもない。

悠久の天皇陵を巡る旅は、確信に対しどれだけの揺らぎが与えるかと、内心躊躇もあったが、現実を認識しながら信仰を確立することを考える時間になっている。

山辺の道を散策しながら崇神天皇陵へ向かう。
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■『古事記』上巻 崇神天皇
「この天皇(すめらみこと)、御歳壱百陸拾捌歳(みとしももちまりむそぢやつ)。〔戊寅年の十二月に崩りましき〕
御陵は山邊道勾之岡上(やまのべのみちのまがりのをかのへ)にあり。」『古事記』上巻 崇神天皇

■『古事記』上巻 景行天皇
此の大帯日子天皇の御年壱百参拾漆歳。
御陵は山邊之道上(やまのべのみちのへ)に在り。

景行天皇陵の正面には国道169号線が南北に走っている。陵のお向かいには「大和まほろば」という食堂があった。微笑ましい。

陵の裏手に回り、大和のおもかげ? もそのままに、日本最古の道といわれる山辺の道を歩いて崇神天皇陵に向かう。

そう遠くない場所に大和三山が見えたときには、タイムスリップも不可能ではないと思い込んでしまうほどだった。

上の古事記の引用のように、崇神天皇の御代にはすでに造られていたこの道。

大神神社、天皇陵、纏向遺跡が結ばれている。道は、曲がりくねり、高低差もかなりあったが、それが眼前で大きく開けると、そこが崇神天皇陵だった。

天皇陵が背にする山々は、陵の中心の延長線上が尾根になっている。学問的には、丘尾切断型の陵というそうだ。

解釈はきっと間違っているが、昔学校で習った三角州を思い浮かべるのがいいのかも知れない。
平地に壕も構築しやすい。

■第十代崇神天皇陵参拝
「開化天皇の皇子。母は伊香色謎命(日本書紀)伊迦賀色許売命(古事記)
『古事記』に所知初国天皇、『日本書紀』に御肇国天皇」と称される。
(考古学的に、実在したはじめての天皇だといわれる)

※資料【國の子勉強会「宮中祭祀を学ぶ」(その一、三種の神器)のレジュメから一部転載】

■神鏡(八咫鏡)
・高天原で天照大神が天岩戸にお籠もりになられたときに、伊斯許理度売命(いしこりとめのみこと)が鋳った。
・これを岩戸から大御神にご覧戴いて外にお出しした。
・天孫降臨

■「同床共殿の神勅」 吾が児、此の寶鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。與に床を同じくし、殿を共にし、以て斎鏡と為すべし。

「私を祀ると思い仕えなさい」「同じ建物に祀りなさい」

・第十代 崇神天皇 「同じ建物に祀るのは畏れ多い」として大和の笠縫に神籬をたてて皇女・豊鍬入姫命がお祀りした。(災害や疫病の蔓延の原因を占った)
 ・倭姫命(垂仁天皇第四皇女)によって、伊勢にお鎮まりになる。
 ・御代器=皇居を出るときに伊斯許理度売命の子孫が作り宮中に奉斎した。
 
古事記の世界が、そのままここにあるような気がして、ただただ感動してしまった。

お濠では宮内庁職員によって、清掃作業が行われていた。本年、辞退せざるを得なくなった皇居勤労奉仕を思い、無念がこみ上げてきた。

感動したり、無念だったり、まったく忙しい。

先にお濠側から鳥居を見てから、参拝させていだく。
崇神天皇陵参拝を終え、近くの天理市立黒塚古墳展示館を見学。

竪穴式石室と三角縁神獣鏡が有名な古墳であるという。パンフレットには卑弥呼の里とある。

「三角縁神獣鏡」の解説をその見学パンフレットから転載する。

《黒塚古墳からは33面の三角神獣鏡が出土しました。この型式の鏡は、背面に神獣を配し、周縁が山形に鋭く尖る形をしているためにこのように呼ばれています。鏡は直径が平均して22センチメートル、重さは1キログラムにもなり、鏡の裏側には中国の吉祥句を記した文章や神仙、霊獣などが表現されています。

古代の首長たちが、鏡に表現された不老不死や神仙思想という中国の思想を受け入れたと考えられています。

また、黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡は、初期ヤマト政権のあり方や邪馬台国の所在論争とも無関係ではなく、これからの解明がまたれます。》

鏡のレプリカを持ってみた。とても重かった。

学者さんたちの解明を楽しみにしています…。
(いまだ古墳そのものに興味をそそられないからとはいえ、小学生の感想文のようにしかならず恥ずかしい)

鏡は高天原で伊斯許理度売命が鋳ったものが最初だと僕は思っています。

さあ、旅も佳境である。

「世界遺産を大阪に」のスローガンで盛り上がる百舌鳥古墳群へいざ!
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復元された竪穴式石室と鏡の配置
すべての報道が、天皇陛下の「退位」と報じるなか、天皇誕生日における陛下の会見では「譲位」という御言葉をお使いになられている。

平成28年8月8日の会見でもそうであった。

天皇国日本である。政教問題を論う枝葉末節の議論を排したい。

元号公表問題もまたしかり。

政治や経済などどうでもいい。践祚、そして改元を発表するべきである。
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上空から仁徳天皇陵をのぞむ。左後ろに目をやると、履中天皇陵が見えた。右手後方には、陪塚としての古墳群が見える。やがてゆっくりと、古墳円方部に着陸する。体の中心がゾワゾワした。

ヘリコプターをチャーターした訳ではない。

堺市博物館の目玉企画なのだろう、VR体験コーナーで上空から百舌鳥古墳群を眺めるというものだった。

その後、仁徳天皇陵に参拝。

■第16代仁徳天皇
父君は応神天皇、母は仲姫。皇太子と皇位を譲りあうこと3年、皇太子の自死にともない即位して難波高津宮に都し、葛城磐之媛を皇后に立てて、履中・反正・允恭天皇ら四男と、妃の日向髪長媛とのあいだに、一男一女あり。
炊烟のたちのぼらないのを望見して民の困窮を察し、三年間課役を免じて聖帝(ひじりのみかど)とたたえられた。

■御陵・百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらなかのみささぎ)
命名の由緒は、役人が天皇陵を定め、陵の建造をはじめたその日に、現れた鹿がその場にパタリと倒れ死んでしまった。急に死んでしまったことを怪しみ、調べると耳から百舌鳥が現れて飛び去った。これにならい、百舌鳥耳原(もずのみみはら)と名づけられる。

《日本書紀》
六十七年冬十月庚辰朔(ついたち)甲申、河内の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、以て陵地(みさゝぎどころ)を定めたまふ。丁酉、始めて陵を築く。是の日に鹿有り、忽(たちまち)に野中より起きて、走りて役民(えだちよぼろ)の中に入りて仆(たお)れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるを異(あやし)みて、以て其の痍(きず)を探るに、即ち百舌鳥耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉く咋割(くひさ)き剥(かきは)げり。故に其の処を号(なづ)けて、百舌鳥耳原(もずのみゝはら)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。

近年は、父君の応神天皇陵、南側の履中天皇陵とともに、その築造年と崩御年の関係から学問的な疑問が呈され「大山古墳」という名称が使われたりもしている。

HUFFPOSTが、宮内庁陵墓課に取材した記録には、
「元禄年間に朝廷が仁徳天皇の墓と指定しました。宮内庁もこの見解を支持しています。考古学者の間で諸説出ていることは認識していますが、墓碑銘などの100%確実な”仁徳天皇陵ではない”という証拠が出てこない限りは、指定を変える予定はありません」
というものであった。

考古学によって明らかになり、それが後世のためになることは間違いなくあると思う。
しかし、暴けば良いというものではない。

少し前の小説からであるが、徳川光圀の言葉とされるものを引用する。

《如在とは、礼の最も根源的な態度である。
死者や神々が、今そこに在すが如く振る舞う。歴史を記すことも、それと同じである。今は亡き彼らが、そこにいたという事実が永劫不滅であることを知り、その生来の姿を十全に思い描く。それが出来ねば、死者たちが生前に抱いたであろう様々な義もまあた、空虚な言葉に過ぎなくなるだろう。後世に伝えるべき義は、過去にあって人を生かし、今の世にあって人に生きる意義を教えるべきものでなくてはならない。》『光圀伝』冲方丁・角川書店

忠臣楠氏の墓の横に、光圀公の銅像が建つ意味が、すべてを象徴しているのである。

さて、最後の地、継体天皇所以の地に向かおう。
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天皇陵を巡る旅の最終地。
本来は陵墓である「三島藍野陵」(大阪府茨木市)参拝を目的としていたが、一人ではなかったこともあり、時間の関係で「今城塚古墳」(大阪府高槻市)の見学となった。

下にその陵墓論争の要旨を記すが、考古学的には継体天皇陵だとされるところである。

【第26代継体天皇】
父君・彦主人、母・振姫。応神天皇5世孫。
男系継承のシンボルともされる応神天皇5世・継体天皇の皇位継承である。

【第15第応神天皇の系譜】
ー第16代仁徳天皇
ー第17代履中天皇ーー第23代顕宗天皇(父君履中天皇皇子市辺押磐皇子)ー第24代仁賢天皇(父君履中天皇皇子市辺押磐皇子)ー第25代武烈天皇(皇子なし)
ー第18代反正天皇
ー第19代允恭天皇ー第20代安康天皇
         ー第21代雄略天皇ー第22代清寧天皇

【応神天皇の傍系の系譜】
稚野毛二派皇子ー意富々等王ー乎非王ー彦主人王(継体天皇父君)

彦主人王は近江国にいたが、越前坂井郡の三国にいた振媛を妃とし、継体天皇を生んだ。

武烈天皇が皇子無きままに崩御され、大伴金村が中心となり、物部麁鹿火らとともに継体天皇を越前から迎え、河内の樟葉で即位された。

【陵墓場所論争】
①現陵は江戸時代後期旧島下郡にあり、南北朝時代の条里も同じで『延喜式』の所在と異なるとし、現陵の東北約1.5㎞の旧今城塚古墳(大阪府高槻市)を当陵とする説が出され、この説をとる研究者も多い。

②現陵は享保陵改めには島上・島下の郡界の山にあり、『中川氏御年譜』(永禄から天正の茨木領主家譜)の「摂州図抄」では阿威川が郡界で、旧島上郡にあるので『延喜式』の所在と現陵の所在が異なると断定はできない。

当然のことであるが、ここに宮内庁の陵墓の掲示はない。
綺麗に整備された周辺には、往時を偲ばせる「埴輪祭祀」が行われていたであろう模様が再現されている。

先にも述べたように、墓銘碑などの確実なものがない限り、宮内庁の対応は変わらないだろう。

是非はともかく、ここで祭祀が行われていたことは発掘された埴輪などからも事実なのである。

神道の起源を遡れば、3世紀の纏向遺跡からは「新嘗祭」の原型だといわれるものが見つけられている。4世紀には神宮が創建され、考古学的にも5世紀には神具が多く揃っていたことが明らかになっている。

継体天皇の御在位が507年〜531年ということも、上を裏付けるものである。
北陸から淀川を超えたはじめての天皇が継体天皇である。

これを、水運を掌握していたとして、朝鮮までその勢力を持ったと書くのは『継体天皇と朝鮮半島の謎』(水谷千秋・文春新書)である。これも興味深い論である。

その後、大和に入るまでの20年間を、対立・抗争の時代とし、のちに大和の勢力を圧倒して皇位を継承するとともに、手白髪(香)皇女を皇后として地位を確立したという説は、『日本書紀』の応神天皇5世というものも含めて潤色だとする論である。

これを簡単に否定してしまうことは容易いのかもしれないが、信仰にとっての堕落でもあるような気がしてならない。

例えば「進化論」の論争のなかで象徴的なもののなかに、
①神がこの世を創造したことは誰も証明できない。
②猿から進化した人を誰も知らない。
という対立がある。

この両論は、どちらも正しい。

進化論が、学問的に解決が可能なのことなのかはわからないけれども、神話を真実とした強固な信念と、時間とランダムな変化が続くことで成立する進化論は永遠に対立するのだろう。

今回の天皇陵を巡る旅も、表向きの結論は「神話と考古学の対立」を眼前に突きつけられたというものだ。

帰京後しばらく、いやいまも揺らいではいる。

それでも、ユダヤ教(旧約聖書+タルムード)=絶対神の信仰というものを考えながら、プライドなどではなく、両面の事柄に真摯に向き合いながら、自分自身の選択をするべきであると思う。

その大前提として、幸い私には「記・紀」を通した「神々の御事績」を素直に信じているという、大安心がある。

   ☆     ☆     ☆     ☆

本年も國の子評論社の活動にご理解、ご支援とご協力をたまわりましたこと、心より御礼申し上げます。

それでは、良いお年をお迎えください。
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今年の思い出①北京・社会科学院日本研究所にて若島さんと
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今年の思い出②比叡山延暦寺〜東寺へ
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今年の思い出③三島・森田両烈士慰霊祭